冬。僕はきみの傍に、

22.捨ててしまえ

 朝、冬の冷気に目を覚ますも、眠気が拭えず時間ギリギリまで布団の中で粘る。
 時間いっぱい二度寝の気持ちよさを味わったら、限界を知らせるアラームを絶望的な気持ちで止めて起き上がる。
 そうして、枕元に置いてある手紙に視線をやって、手紙の送り主に思いを馳せてから朝の準備に取りかかる――それがここ数日の密の習慣になっていた。
 密自身、女々しいことをしているという自覚はあった。
 だが、どうしてもその手紙を片付けるなり、捨てるなり、あるいは返事を送るなりという行動を密は起こせないでいた。
 送り主の名は祐介という。
 売春をしている密を本気で、そして純粋に「好きだ」と言ってきた男だった。
 それなのに、売春に拘った密は金を払ったら抱かれてやると言って一線を引き、祐介は思いつめた様子ではあったがそれを承諾した。つまり、金を払って密を抱いたのだ。
 当初、男同士のやり方も知らないような純情な男を、汚れた世界に引きずり込むような状況に密は愉悦を覚えて、祐介をホテルへ連れ込むと誘惑した。
 ところが、そんな密の思いも知らず祐介は、純粋に密を思い、密が気持ちいいことだけをしようと、常に密のことばかりを気にかけながら抱くから、そんな風に大事にされたことがなかった密は戸惑いを覚えてしまった。
 さらに密は「今だけ恋人と思ってもいい」などと言い、祐介も「独占したい」などと言って、気持ちだけは盛り上がって普段と違う満足感を味わうことはできたが、終わったあと祐介に金を渡されたときには死にたいほどの絶望感を密は味わうことになった。
 あんな思いをするなら、初めから祐介を拒否すればよかった。いや、いっそ売春などしなければよかった。密はそう胸のうちで繰り返しながら、だがそう思う自分が不可解でもあった。
 売春に拘っていたのは自分なのに。金を払わなければ男に抱かれないと誓ったのは自分なのに。
 密は自分が今まで何をしてきたのか、この時はじめて思い返していた。
 売春から少し遠ざかって、普通の人がするような生活を送ってみたい、そう思った。
 ところが、密の常連客だったリオという男がそれを許さなかった。連絡が来ても拒否し、いつもの店にも行かずリオやその取り巻きと会わないようにした。
 だが、それもすぐに見つかり捕まってしまう。
 そして、ホテルの一室に閉じ込められるとリオとその取り巻きに襲われた。
『今さら、俺らから離れられると思うなよ』
 そうリオに言われた。さらに祐介の存在も知られ、彼に何かしたらしいことも知った。
 また、次断れば祐介に危害が加えられる。そんなことも言われて密はどうしようもなくなった。
 祐介が酷い目に遭わないようにリオに従う、それはまるで密が祐介を守っているようで、ふとそんな状況になっていることに不審を覚えたりもするが、そもそもは自分に原因があるのだし自分が望んだことなのだから別にこのままでいいんじゃないかとも思う。
 リオのやり方は強引だが、今まで通り金は払ってくれる。リオを中心に売春は続き、以前と何ら変わることのない生活が続いている、ただそれだけだ。
(……なんて、ごまかしてるだけだよな)
 顔を洗って鏡を見れば、生気のない暗い目が自分を見つめ返してくる。その視線を捉えながら密は、鏡の中の自分に問いかける。
「お前は本当に、それでいいのか?」
(いいわけない)
 密の中のもう一人の密がくり返す、いいわけがないと。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
 泣きそうな顔でそう呟いたとき、思い出したのは枕元に置いた手紙だった。
 祐介からの手紙には、密への想いと、密を心配しているということと、必要のない謝罪と、密を助ける用意があるということ、そして祐介の住所が書かれていた。
 無用心だなと思う。もし、これがリオの手に渡ったらどんなことになるか、それが分からないはずはない。
 いや、それよりも何よりも密のせいで一度はリオに酷い目に遭わされたはずなのに、密を責めるどころか手を差し伸べる、その祐介の優しさに密は胸が震えた。
 祐介のもとに行きたいとは思う。傍へ行って、まずは謝りたいと思うし、誰よりも祐介に話を聞いて欲しいと思う。
 だが――
(これ以上、迷惑なんかかけられないよ……)
 こんな時に限って、遠慮する自分が現れるのだ。
 そんな問答を密は、手紙をもらってから毎朝やっている。
 そして今日も答えが出ないまま、密は鏡の自分から顔を背けて部屋へ戻った。
 部屋へ戻ると図ったように携帯が数回鳴った。
(メール……)
 恐る恐る携帯を開くとメールを送って来たのはリオで、今晩いつものホテルへ来いという命令だった。
(また、乱暴されるのかな)
 そう思うと密は憂鬱で仕方ない。
 売春は金儲けのためでもあったが、密自身セックスが好きだからというのもあった。
 それでも、リオとのセックスを密は少しも楽しいとは思えなかった。
(嫌だな)
 しかし、行くしかない。断る選択肢は用意されてないのだ。
 密は大きなため息をついて、携帯を閉じると仕事へ行く準備を再開した。

 リオの行為は、途中休憩を挟みながら深夜過ぎまで続いた。
 最近では専ら複数を相手にすることが多く、乗り気でない密を強引に犯して集団レイプのような真似事をするのが、彼らの間で流行っているようだった。
 基本的に密は、今まで複数での行為を許容してこなかったが、祐介を盾に脅されている今の状況ではリオに逆らうことはできなかった。
 そうして男らが満足して帰ったあとで、酷使された密の体は言うことを聞いてくれず、やっとの思いで自宅のアパートに帰りついたころには、すでに明け方も近い。
 身を切るような冷たい風を受けながら薄暗い住宅街を行き、馴染みのアパートが見えて密は思わずホッと息をついた。
 だが、アパートの前に人影があるのに気づいてギョッとする。
 ダウンジャケットを着て、首にはマフラーを巻き、両手をズボンのポケットに入れ、そうして寒さを凌ぐためか体を揺らしながら白い息を吐いている。
 年齢は密と同年か少し上のように見えた。夜闇に目立つ色白で、まだ横顔しか見えないが些か目元がキツそうで、でも親しみやすそうな好青年だと密は感じた。
 密が近づいて来ているのに気づくと、青年は両手はポケットに入れたまま真っ直ぐ密に向き直った。ということは自分に用があるんだなと思ったが、見覚えのない青年に密は首をかしげた。
 青年から1メートルほど離れたところで密は立ち止まると、向こうから口を開くのを待つ。
 青年は密を目の前にして逡巡したようではあったが、意を決したように密の視線を見返すと言った。
「きみ、密くん、だよね。俺、晃っつーんだけど。祐介のダチっつったら――わかるよな?」
 祐介の名を聞いたとたん、密の動悸が激しくなった。表情にはなんとか出さないように気をつけながら、それでも動揺に言葉が出ない。
 構わず青年――晃が続ける。
「歩から手紙受け取ったよな? 受け取ってから今日で何日経った?」
 晃の詰問口調につい密の顔が険しくなった。
 それも構わず晃はさらに言い募る。
「祐介がどんだけきみのことを想ってるかわかってんの? きみのことを好きで、きみの傍にいたいと思ってて、でもきみはお金に拘るから祐介は自分と葛藤しながら行動を起こした。だけどきみは? 何かしたか?」
「あなたには、関係ないでしょ……」
 痛いところを突かれてつい密はそう突き返すが、それにはすぐに「関係ならある」と返された。
「関係ならあるんだよ。あいつとはガキの頃からのダチだし、今同居してんだけど何かっちゃ落ち込んだり、顔腫らして帰ったり、泣いたり、平気でリビングでAV見たり――いい迷惑なんだよ」
「AV ……?」
「ホント同居なんかすんじゃなかった。きみに会う以前は、もっとしっかりした奴だったんだけど」
 次第に愚痴になっていってることに、本人も気づいたのか軽く肩をすくめると話を元に戻した。
「今までは柔道バカだったんだ、ホントに。それしか頭になくて、女にも興味なかったし、もちろん男にもな。真面目で一筋で実直で曲がったことが嫌いな奴だった。でも、きみと会ってから変わった、と思う。いつも悩んでるし、気持ちの浮き沈みはあるし、AVにも興味持つようになったし――」
(……またAV)
「あれだ、自慰を覚えたサルだ。とにかくバカなんだ」
「……」
 力いっぱい言い切る晃に、密はどう感想を持てばいいのか分からず戸惑った。
 だが、一瞬晃の言葉が途切れ、密を窺うような視線を投げかけられると、さらにドキッとするようなことを言われる。
「失礼を承知で言わしてもらうけど、正直きみのような売春をやってる男のどこがいいんだろって俺は思う――ごめんな」
 晃は謝るが、そう考えるのが普通なのだろうと思う。それは密かにも分かっていた。
 分かってはいたが、思わず密の視線が地面に落ちる。
「あいつの考えてることなんて、今まではわかってたつもりだったけど――もう俺にはわかんね。だけどな、祐介は生まれて初めて人を好きになったんだよ、きみを……。今はきみのことしか考えられないんだってことだけはわかる」
 ふと晃の口調が和らいでいることに密は気づいた。
 そっと顔を上げて晃を見れば、苦笑するような、それでいて優しげな笑みを浮かべていた。
「きみにさ、少しでも祐介を思う気持ちがあるんだったら、何でもいいから応えてやってくれよ。『好き』でも、『嫌い』でもいいし、『助けて』でも、『ごめん』でもいいし――。そうしたらさ、どんな答えでもあいつはまた前に進めるんだ。きみの気持ちに応えるために。それか、きみのことを諦めるために――。きみ次第なんだ」
 晃の言葉に密は既視感を覚えた。
 祐介からの手紙を歩から手渡されたとき、そういえば同じことを歩も言っていたと密は思い出した。
『どうするかは密次第だよ』
(僕、次第……?)
「本当は迷ってるんだろう? 売春……本当はやめたいって思ってるんじゃないか?」
「……」
「歩からチラッと聞いてるけど、リオっていう奴のせいでややこしいことになってるんだって? だけどさ、集団で暴力振るう奴の何が怖いんだ? そんな奴に何縮こまる必要があんの?」
 晃の問いに密は気がつくと口を尖らせていた。
 あの場にいないからそんなことが言えるんだ、と内心で呟いて、だが、言われてみると何となくそんな気もしてくる。
「ま、俺は戦力になれる自信はないけど、助けていいんだって思ったときのあいつはたぶん強いと思うよ。精神的にもな。だから、頼ってやれよ。祐介を好きだと思ってなくても、売春やめるきっかけの踏み台にしてやれよ。あいつはそれでも嬉しいって喜ぶから、絶対」
 そう言って晃が声を上げて笑うのに、密もつられて笑みをこぼした。
 確かに、あの祐介ならそれも有りえるかも知れない。
 そんな祐介の真っ直ぐな想いと、おどけた言い方をしながらも背中を押してくれる晃の言葉に、自然と密は心が解れていく気がした。
(みんな優しい……)
 ふと、密は微笑みながらも泣きたくなった。
 歩も協力すると言ってくれた。祐介も手紙で密を助けたいと言ってくれた。祐介の友人だとは言っても、今日会ったばかりの晃も後押しするようなことを言ってくれる。
 そんなみんなの気持ちがとても暖かくて、密は泣きたくなった。
 だけど――
「でも、僕……よく、わからないんです」
「わからないって?」
「僕、普通に人と付き合ったことがないから」
「ダチとかもいなかったってことか?」
「うん。好きっていう気持ちも、よくわからなくて――。今までのような付き合い方しか、きっと僕にはできない」
 突然、うつむいた視界の端に晃の足先が見えた。こちらに近づいてきたのだと分かって僅かに顔を上げると、晃の手が動いたのが見えて、咄嗟に叩かれると思い身構えた密だったが、
「っ!?」
その晃の手は強く密の肩を叩いて、そして揺すってきた。
 肩を揺すられて密は思わずよろけながら、晃を見上げると強い眼差しが向けられていた。
「決め付けんなっ! 自分でそう思い込んでるだけだろ。前に進む邪魔になるくらいなら、過去なんか捨てちまえっ! 忘れろっ!」
「忘れ、る?」
「そうだ。自分で自分を縛るようなことすんな」
(自分を縛る?)
「過去に何があったか知らないけどさ、自分を傷つけるようなことするくらいなら、いっぺん全部忘れてまっさらな状態から初めてみろよ」
 そういって晃はズボンのポケットから何かを取り出すと密の手に押し付けた。何かと思って見れば家の鍵のようだった。
「これ……」
 まさかと思って見上げると、晃が口の端で笑ってみせた。
「俺と祐介の部屋の鍵」
「でも――」
「きみはさ、何かいろいろ考えすぎてがんじがらめになってんだよ。誰かに話を聞いてもらった方がいいんじゃねーかな。歩は聞く気ねぇだろうし、俺だってもちろん興味ねぇ。でも、祐介あたりなら喜んで聞くだろうな。ついでに逃げ込んじまえよ」
「……」
 もう一度、密は手の中の鍵を見つめる。
 ずっとポケットの中で握りしめられていたのか、とても熱く感じる。
 それでも動けないでいる密の肩に、再び晃の手が優しく置かれた。
「祐介なら、いつでも待ってる」
 顔を伏せたままの密にそう声をかけ、晃は密の肩に置いた手を2度ほど軽く弾ませるとそっと離れた。そして、「じゃ」と簡単な別れの挨拶をして、僅かに白みはじめた住宅街に消えていった。
 残された密はただ立ち尽くして、声もなく泣き続けた。

2010.10.03

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