冬。僕はきみの傍に、

16.逃がした魚

「きみが本を読むなんて、なんだか意外な気がするけど」
 屋上で読書していた恭輔に、そう掛けてきた声は、恭輔の名を呼ぶこともなく前置きすらもなかった。
 それでも掛けられた声は自分に向けられたものだと分かったのは、その声が近くからしたからということと、周りに自分以外人は居ないということと――自分の印象から読書など結びつきもしないだろうという自覚が恭輔にはあったからだ。
 屋上のフェンスにもたれかかったまま、恭輔は本から視線を上げた。
 そこに、朗らかな笑みを浮かべた――彼がいた。
 言葉には続きがあった。
「でも、こうして見ると、これほど読書姿が似合うやつがいるのかってくらい、なんだか似合ってるよな」
 高校へ入学してから早3ヶ月が過ぎ、もうすぐ夏休みが始まろうという頃の、これが恭輔と慶永の初めての対面だった。

 高校生活も3ヶ月が経てば、誰がどんな奴か検討もつき、女子に至ってはグループも大体が固定してくる。
 恭輔にも2、3人ほど話す相手はいたが、他の大概のクラスメートは恭輔を避けている節があった。
 それはイジメというものではなく、恭輔の持つイメージと噂のせいだった。
 恭輔の容姿は整っていると言っていいが、些か強面ではあるので一見して怖いイメージを持つ者が多い。
 加えて、それを助長するかのような噂があった。
 ケンカが強くて、どこぞの不良と毎晩バイクを乗り回してるだとか、夜の街でヤ●ザと歩いているのを見ただとか――。
 ヤ●ザはともかく、ケンカが強いのは事実なので、信憑性に欠けるもののあながち嘘とも言い切れず、噂に尾鰭がつき大袈裟なものになってしまったのだった。
 更に言えば、その噂を誰も否定せず本人すらも否定しないのだから、広まってしまっても仕方のないことだった。
 結果、恭輔はケンカが強く不良(更にはヤ●ザ)と付き合いがあり、怖いやつだというイメージが付き、滅多にクラスメートから恭輔に話しかけてくることはなかった。
 そういう理由があって、いかにも優等生な慶永が自分に声をかけてきた、ということに恭輔は驚いた。
 そして彼の笑顔にも――

(あの笑顔は今も変わってなかったな)
 早朝、タクシーを拾い家に帰った恭輔は、もう一度シャワーを浴びながら、あの同窓会から何度思い返したか知れない、慶永のことを思った。
 一点の曇りも無い笑顔、包み隠すことのない真っ直ぐな言葉――そんな表裏の無い態度はその頃の恭輔に“安心感”を与えた。
 ただ、今の恭輔は昔と同じように思うことは出来なかったが。
 変わらない笑顔、変わらない態度は、大人になったぶん深みを感じたが、恭輔が昔に感じた安心感はなかった。
 あるのは懐かしさと、親しさと、出会えた喜びと、あの頃抱いていた好意と――そして焦燥感と。
(あいつは何も変わらない。おれの気持ちも変わってない。なのに、あいつに対するときの気持ちが変わったのは――)
 お互いの距離のせい。
 9年前のあの頃は学校へ行けば彼に会えた。
 初対面をクリアした後、互いに気が合うと感じてすぐに親しくなった。
 2年のときだけクラスは違ったが、その時でも時間を作って会いに行ったり、または慶永の方から恭輔に会いに来たりもした。
 恭輔にとって慶永は誰よりも近い存在であり、また慶永にとってもそうだと言える確信が持てた。だからこその安心感だったのかも知れない。
 だが今は違う。
 それは、卒業した時から分かっていたことだった。
 「卒業しても会おう」という約束は、互いに忙しくてついぞ果たせなかった。
 気が付けば慶永に対し好意を抱いていた恭輔は、叶わない想いなら――といっそ会えないなら会えないでいい、とも思っていた。
 ところが同窓会当日、意外なほどあっさりと会うことが出来た。聞くと大学に入ってから、一人暮らしをしていた場所も近くて、会えない距離でもなかった。
 そうして彼が言う。
「きみのこと、憧れていたんだよ」
 再び湧き上がる感情、好きという想い。もしかしたら、また高校のときのように彼と一緒に過ごせるかも知れないという期待。
 そして、あの頃の感情が甦って――
(結婚したって聞いた途端、崖下に突き落とされた気分だったよな)
 思いながら恭輔は苦笑する。
 濡れた髪を拭きながらバスルームを出ると、リビングのソファにどっかと腰を下ろした。
 髪を拭いていたタオルはそのまま首にかけて、天上を仰ぐと目を瞑った。
 今でも彼のことなら全てを思い出せる。昨日のことのように、鮮やかに、くっきりと。

 人のいない教室で一人、恭輔は廊下側の壁にもたれて床に座り込んでいた。
 片膝を立て、頭も壁にもたせて少し仰向け、そうしてやけに遠くの方で始業のチャイムが鳴るのを聞いた。
 本当なら恭輔も慌てながら、自分の教室へ向かわなければいけないところだが、特に気にする風でもなくやおら目を瞑って、そうして時が過ぎるのをじっと待っているようだった。
 そうして、どれくらいの時間が過ぎたか、突然、教室のドアが開かれた。
 教師かと思い、慌てて恭輔がそちらの方へ振り向けば、立っていたのは教師ではなく慶永だった。
 恭輔に気付くと心持ち眉をつり上げて近づいて来る慶永。
 そうして恭輔の傍まで来ると、恭輔の右腕を取ってグイッと強引に持ち上げ――
「って、ぃてぇ!」
 途端に恭輔は顔をしかめて痛がった。
 それを見て更に慶永の顔が険しくなる。
「また、ケンカしたんだ?」
 これで何度目だと、呆れられたように言われて、恭輔は決まり悪く慶永から視線をそらせた。
 しかし、ケンカの大概は相手から仕掛けられることがほとんどで、恭輔にしてみれば避けられない仕方のないことなのだ。
 それは慶永にも分かっているらしく、ひとつため息をつくと制服のポケットから何かを取り出し、恭輔の顔の前へ突き出す。
「?」
「消毒薬とシップと絆創膏。保健室から失敬してきた」
「……いいのかよ、生徒会長がそんなことして」
 言いながらも受け取る恭輔。
 今や生徒会長である慶永は、しかし言うほど優等生でないことはもう恭輔も知っている。
 だから、そう言いつつもこれが慶永なんだと理解しているし、別に責めているわけでもなく、これは揶揄だった。
 だが、受け取った消毒薬や絆創膏が、人肌に温くあたためられていて、これを持ってどれだけ自分を探し回ったのかと思うと、つい先ほど言ったことを恭輔は悔やんだ。
「仕方ないだろう。校医がいなかったんだから、ありがたく思ってよ」
 恭輔の後悔など知るよしもなく、恭輔の揶揄にいつものように受け答える慶永を、恭輔は今この時ほど感謝したことはなかった。
 消毒薬を握りしめながら、恭輔は自分の身の境遇と、慶永のことを思った。
 慶永がいてくれるから、自分は今ここに居られるのかも知れない、と。
「……ああ、ありがとう」
 そして自分はもう、慶永が居なくては生きていけないのではないか、ということと。
 告白をしたい、と恭輔は思った。
 自分の胸の内にある想いを全て。そして、出来れば慶永と――。
 意を決して振り仰いだ恭輔の頬に、ふいに慶永の手が触れた。見ると慶永の顔がやけに近い。
 何をされるのか、と思ったが、それだけだった。
 慶永が言う。
「僕は恭輔のことを同情したり、可哀想に思ったりはしない。それは恭輔にとって侮辱になるから。だけど、恭輔にはもっと自分自身を大事にしてほしい。傷ついてる親友を見るのは辛いから。だから、僕に出来ることがあるなら、何でも言ってくれ」
 真剣な表情で、真摯に訴えかけられて、恭輔は床へ視線を落とすと、先ほどと同じ言葉をただ繰り返した。
 「ああ、ありがとう」と――。

 結局、高校を卒業するまで“自分を大事にする”ということが自分に出来たのかどうなのか、恭輔自身わからなかった。
 それ以後、そのことについて慶永から再び触れられることもなく、いつも通りに学校生活を楽しく過ごしていただけ。
 恭輔はと言えば、「親友」と言われたことが胸に刺さって、そこからもう動けずにいて、そして卒業の日が来てしまった――という感じだった。
 想いは叶わない。それなら、この関係を壊すよりも、言わずにおいてずっと親友を続ける方がいい。
 そして、卒業してもう会えないのなら、いっそ会わずにおいて慶永への気持ちはいい思い出としてきっぱり諦めようと。
「もうすっかり諦めていたと思ってたんだがなぁ……」
 ソファに身を沈めて、天上を仰いで、瞑っていた目を開くとそう呟く恭輔。
 気持ちの上ではすっかり終わっていたと思っていた。思い出は思い出として、気持ちはもう風化したものとばかり思っていた。
 だから同窓会に行った。慶永と昔の親友として会えると思ったから。
 ところが、会ってみるとそうじゃないことに気付かされた。
「僕はきみに、『自分を大事にしてほしい』って言ったけど、本当はちょっと形振り構わずってところ憧れてたんだ」
 同窓会の日、そう言った慶永の頬が赤かったのは、酒のせいだったからか。
 それでも、視線をあまり合わせようとしなかったことだし、照れていたのは事実だろう。その彼が続ける。
「僕がちょっと優等生に外れたことをしていたのも、今から思えばきみに憧れてたからだと思うんだ。それまで、そういうことしたこと無かったし、しようとも思わなかった。
だけど、恭輔を見てると心臓がどきどきして、自分も彼と並んで同じことをしたいって思うようになったんだ。僕は本当に――きみのこと、憧れてたんだよ」
 嬉しかった。次に「なんで今更」と思った。思ってすぐに後悔した。
 あの時、告白していれば良かったと。胸が焦げるような激しい後悔をした。
(逃がした魚はなんとやら、だな)
 そうして自棄になって、同窓会の日から毎日飲み明かし、挙句に喧嘩を売って足腰立たなくなるほどやられてしまった。
 こんな感覚もまた懐かしい。高校以来か。
 天上を仰いだまま、また瞼を閉じた。思い出に耽るためではなく、睡魔が少しずつ瞼を重くしていたからだ。
 こんな状態で、こんな所で考えていてはまた堂々巡りになってしまう、一度寝てしまおうと恭輔は勢いを付けてソファから立ち上がろうとし――。
「っつ……」
 体のあちこちが痛みで悲鳴をあげた。
 体中痣だらけなのを思い出す。
 同時に昨日会ったばかりの青年の声が思い出された。
『明日にはちゃんと病院に行って下さいね』
『手遅れでどうにかなってしまったら、悲しむのは家族や友人なんですから』
 思い出して、恭輔は思わず苦笑いした。
(自分を大事に出来てないのは、今も昔も変わらず――って、そりゃ情けなさすぎるか)
 ゆっくりとソファから腰をあげると、服を着替えるため部屋へ向かう。
 病院へ行くために。
 幸い心の痛みは和らいだから、今度は体の傷を癒そう。そうして、高校の頃に出来なかった、慶永の言う「自分自身を大事にする」ことを心がけて、いつかまた彼に会うことが出来たなら、その時は言おう。
「おれも慶永が好きだった」

2010.08.30

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