冬。僕はきみの傍に、

俺の日々の煩悶[1-10]

 少しの間そうして立ち尽くしていると、マンションの入口の辺りで足音がして、「ユキ」と呼ばれて振り返るまでもなく、その声の主は俊也さんだと分かったし、それ以前に呼ばれる前からその足音の主は俊也さんだと簡単に察することができた。
 でも、何故か今は俊也さんと顔を合わせづらいような気がして、その理由に夕飯の用意がまったく出来ていないこととか、ついさっき間壁先輩にされた告白に戸惑っている自分を知られたくないとか、もしさっきのやり取りを俊也さんに知られたら気まずいとか――それらの理由が頭の中でこんがらがって混乱して、そんな焦りから俺の思考は停止してしまった。
 そして、やっぱりそんな自分に気付かれたくないのもあって振り返れないと思ってしまうが、だからと言ってずっと振り返らないとか出来ないから、少しだけ気持ちを落ち着けると振り返ってまず「おかえりなさい」と言った。
 振り返った先には会社帰りスーツにコートを羽織った格好の俊也さんが、はじめは不思議そうな顔をしていたけど、すぐに少しだけ表情を和らげて「ただいま」と返して、それから「早く部屋に入ろう。自転車を置いておいで」と言った。
 言われるままに俺は自転車を駐輪場に置いて、入口で待っててくれている俊也さんの元へ戻ると一緒にエレベーターへと乗り込んだ。
 エレベーター横の「上」ボタンを押すと、すでに1階で待っていたエレベーターの扉がすぐに開いた。
 乗り込んで俊也さんが6階のボタンを押して、扉が閉まりエレベーターが動き出すまで、俺と俊也さんとの間に妙な沈黙が流れたが、その沈黙を破ったのは俊也さんだった。
「さっき一緒にいたのはユキの友達か?」
 自転車を駐輪場へ置いてエレベーターに乗るまで、俺の頭の中は少しずつ落ち着いてきていて、まず訊かれるだろうと思ったその問いの答えはちゃんと用意できていたから、俺はその用意した答えをそのまま言った。
「サッカー部の先輩で、部長の間壁先輩」
 ただ、その口調があまりにも機械的になってしまったような気がして、慌てて一言を付け加える。
「サッカーのことで、ちょっと相談に乗ってもらってたんだ」
 だけど、その言葉に返ってきた俊也さんの「そうか」という返事を聞いて、途端に良心が痛んだ。どうしても視線を上げることが出来なくて、「そうか」と言った俊也さんの表情を俺は見ることは出来なかった。
 俺は昨日から嘘ばかりで、その嘘を俊也さんは本当に信じているのか、それとも嘘だと気付いて信じているふりをしてくれているのか……そのどちらにしても俺の気は重くなるばかりで、間壁先輩とのことを黙っていることが、あるいは嘘をついていることが苦しいから、思い切って俊也さんにすべてを話したいと思っているのに、やっぱりどうしても口を開くことが出来なかった。
 約1年前、俊也さんのマンションへ来ることが決まったとき、「悩みを一人で抱え込むな」というようなことを言われたことがあるが、俺は今そんな俊也さんの気持ちを無下にしてしまっているんじゃないだろうか。
 息苦しい沈黙がまた流れようとしたとき、エレベーターが6階に着いて扉が開いた。それと同時に俊也さんが俺の頭に手を置いて、
「腹減ったな。晩飯、できてないんだろ。出前でも取るか」
と何かを払拭するような明るい声で言うから、俺は思わず頭に手を置かれたまま俊也さんを見上げる。その俺の視線を受けて俊也さんが、口調と同じような笑みを浮かべて俺を見下ろして先を続けた。
「ユキは何が喰いたい? ピザか、中華か、パスタか、寿司か――」
 言われた途端、思い出したように空腹を感じて、今日の胃袋的には寿司が食べたいとか思ったが、金額的なことを考えて「壱号屋のカレー」と答えた。ここは一品から注文できるし、一品の金額が安いからいい。
 そんなことを考えていると、エレベーターから廊下に出て部屋に向かいながら、俊也さんが笑って言った。
「ユキは出前っていうといつもカレーだな」
 俊也さんの言葉に、そうだったろうかと思い返しながら、でも確かに壱号屋のメニューや金額、宅配料や何円以上注文すれば宅配料が無料になるかなども知っていて、他と比べてよく出前を頼んでいるということは明白だった。
「今度のユキの誕生日には、ピザか寿司でも頼もうか」
 部屋の鍵を開けながらそう続ける俊也さんの後ろで、俺は自分が寿司を食べたいと思っていることとか、お金のことで多少遠慮していることとか、すっかり見透かされてると感じて一人顔を赤くした。

 玄関の戸を開けると唐突に部屋の奥から電話の鳴る音が聴こえてきたが、唐突にというのは俺が勝手に感じただけで、戸を開ける前からきっとその音は鳴っていたんだろう。
 「おっと電話だ」と俊也さんが慌てて靴を脱いでリビングダイニングにある電話の元へと急ぐ。
 俊也さんが在宅のときは当然電話は部屋の主である俊也さんが取ることになっている。ただ、稀に仕事や読書に集中して気付かないときは俺が取るんだけど。あるいは、俊也さんが留守のときもやっぱ取らないわけにはいかないから、俺が出て伝言を受け取るようにしている。
 玄関の鍵を閉めて俊也さんの後を追うようにリビングダイニングへ行くと、その部屋の電気だけが点いていてコート姿のままの俊也さんが受話器片手に応対していた。
 俺は部屋の暖房を付けてから着替えるため自室へ行こうと、また廊下へ戻ろうとしたとき――
「ああ、待って。今代わります」
と俊也さんが受話器の向こうに言う。
 「代わる」なんて部屋には俊也さんと俺しか居ないから、たぶん俺のことだろうと思い立ち止まると受話器を俺に差し出して俊也さんが言った。
「お母さんからだ」
 お母さんとはもちろんこの場合俺の母さんのことで、久しぶりの母との電話に嬉しいという気持ちが少し、きっと「一度家に顔を見せに来て」と言われるだろうというのが分かるからうんざりする気持ちが大分――で、複雑な気持ちを抱えながら俊也さんから受話器を受け取るとゆっくり耳に当てる。
 そんな俺の様子に苦笑しながら俊也さんは、コートを脱ぎつつ廊下に出て自室へ行ってしまった。それを見送ってから俺は「もしもし」と受話器の向こうに声をかけた。すると――
『あ、かずくん! 元気だった? 風邪ひいてない? ちゃんと食べてるの? もう、滅多にかずくんから連絡くれないから、便りがないのは元気な証拠っていうけどお母さん心配で心配で――』
 相変わらずの勢いで矢継ぎ早に訊ね、答えもろくに聞かず先を続ける母さんの性急さに思わず笑ったあとで、俺はなるべく抑えた口調で言った。
「母さんも、あいつにいじめられてない?」
 ほんの一瞬だけ受話器の向こうが静かになったが、すぐに母さんの明るい笑い声が返ってきた。
『やぁねぇ、いじめられるなんて! そんなことあるわけないじゃない。かずくん、それは誤解だって前にも言ったでしょう?』
 確かに言われたし、本当に母さんにとってはそうなのかも知れない。でも、何度聞いても俺には納得できないし、母さんがあいつのことを庇っているように聴こえてしまう。
『かずくん? 聞いてるの?』
 黙ってしまった俺に母さんがまた訊ねてくるが、自分から言っておきながら、でもこれ以上あいつの話をしたくないし、嘘でも「わかったよ」とは言いたくないから俺は話を変えることにした。
「それで、ご用件は何?」
『ま、かずくんこそなぁに? その聞き方。相変わらずねぇ』
 初めはちょっと怒った口調で、最後にはクスクスと笑ってから母さんは電話をかけてきた目的を告げた。
『かずくん、もうすぐ誕生日でしょう? ね、その辺りのお休みの日でも、こっちに帰って来れないかしら?』
 やっぱり、と内心で呟いてから受話器の向こうに聴こえないようため息をもらす。予想通りの言葉に、予め抱えていた気持ちを表情に出して、俺はどう答えるべきか内心で頭を抱えた。
 久しぶりで母さんに会いたい気持ちもあるし、向こうから「誕生日」と言ってくるということは、もしかしたら何かプレゼントがもらえるかも知れないという下心もある。でも、行ったら行ったであいつに会ってしまうし、あいつと俺の間に入って何とか仲を取り持とうとする母さんの姿を見たら苛々してしまうだろう。
 そういうのが嫌だからやっぱり行きたくない気持ちの方が今は大きい。
『ねぇ、かずくん。帰って来れない?』
 再度問う母さんに俺は重い口を開く。
「もうすぐテストあるし…」
『その後でもいいから』
「土曜は部活の先輩の引退式で……」
『じゃあ日曜日はどう?』
「部活、あるし……」
『部活が終わったあとでもいいし、一日くらいお休み出来ないの?』
「……できないって、そんなことで」
――と、これは嘘に近い。適当に理由を言えば本当は休ませてもらえるだろうし、実際に休ませてもらっていた部員を見たことがある。だけど、さすがに自分の誕生日だからといって理由を適当にでっち上げて休む気にはなれない。まして実家に戻るのは嫌だとさえ思っているのに。
 それでも俺は卑怯にも自分の口から「家に戻るのは嫌だ」と言いたくなくて、何かにつけて「行けない」理由を必死になって探していた。でも――
「久しぶりだろう。帰ればいいじゃないか、ユキ」
 どこから聞いていたのか、それとも電話の内容は察しがついていたのか、リビングダイニングに入りながら俊也さんが言うから、俺は驚きと恨めしさを込めて俊也さんを見返した。
 俊也さんにそう言われてしまうと、嫌だと駄々をこねる雰囲気じゃなくなって俺は
「考えとく」
と精一杯の譲歩をして、とりあえず今日は電話を終わらせた。
 電話を終えて、食卓に着き壱号屋のメニューを眺めている俊也さんに倣い、俺も椅子に座りながら我慢できずにまたため息をつく。そんな俺の様子にやっぱり苦笑して俊也さんが口を開いた。
「たった一日のことだろう、ユキ。親孝行だと思って帰ってあげればいいじゃないか」
 俊也さんのもっともな意見にも俺は「うん」とも頷けず、曖昧に喉の奥で「う〜」と唸って、それ以上俊也さんに何か言われると絶対説得されてしまうから、やっぱり話を変えるつもりで
「俺、いつものチキンカレーがいいや。俊也さんは?」
と嫌な気持ちを払拭させようと軽い口調で言った。
 唐突に話を変えられて、でも俊也さんは怒る様子もなく顎に手を当てメニューを見ながら
「そうだな。僕もいつものシーフードカレーにしようかな。でもユキ、たまには違うものにしてみたらどうだ? ほら、カキフライカレーなんて旬だし美味そうだぞ」
「それいうなら俊也さんだって」
「じゃあ僕はチキンカレーにしよう。いつもユキが食べてて気になっていたから」
「それじゃあ……俺はカキフライカレーにする」
 そういうことになった。

 そして次の日、俺は腹痛で久しぶりに学校を休むことになる。

2009.02.21

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