冬。僕はきみの傍に、

3P−鬼が来たりて−[1-2]
 ここからは15禁です。
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 冬の冷気は場所を問わず侵食し、ともすると室内にも関わらず吐く息が白くなるほど冷え込むこともあった。
 今朝も寒さに体が震えて桃也は深い眠りから目を覚ますと、まだ半分夢の中にいながらも堪らず布団をかき寄せた。
 ベッドの上で体を丸め少しでも暖かくて心地良い体勢を探し、そうして普段なら横向きになると背中に隙間があいて寒くなるのに今日は暖かいなと思いながら、微かに瞼を開いてぼんやりと部屋を眺めた。
 朝陽がすでに登りかけているのだろう、室内はほんのりと色を取り戻して部屋の様子を蘇らせている。
 桃也の部屋は二階の洋間で、この部屋に住みだしたときから変わらないアイボリーホワイトの壁と天井と、そしてフローリングの床。また、これは昔からずっと変わらなかったのかも知れない、天井に設置された照明は少しお疲れ気味に吊り下がっている。
 家具は高校に入学したときに両親に買ってもらった勉強机と、その上に半年ほど前に叔父が買ってくれたノートパソコンがあり、机の傍には自分で買ったナチュラルブラウンの小さめのラックと同色のポールハンガーがある。
 ラックには桃也の趣味である料理本が並べられ、内容も初心者向けから少々専門的な本まであった。そして、ポールハンガーには仕事に行くときにいつも使うジャケットとマフラーと鞄が――あるはずだった。
 それが今日はない。見当たらないのだ。
(変だな、いつもあそこに全部かけておくのに)
 消えきらない睡魔が頭の回転を邪魔して、その「いつもあるはずのものがない」ことの原因を桃也はすぐに思い出すことができなかった。
(昨日は……昨日は帰ってから何をしたっけ?)
 昨日は仕事がいつもより早く終わり、夕日が沈みきらない明るい時間に帰ることができた。仕事場と桃也の自宅との距離は近く、徒歩で片道三十分もかからない。とはいえ、本当なら自転車で通ってもいい距離だが、仕事をはじめた当初桃也は自転車を持っておらず、そのうち買おうと思いながら徒歩で通っているとそれが普通になってしまった。
 今では健康と体力づくりに歩いて通勤することを習慣としている。
 昨日もいつものように歩いて帰り、仕事が早く終わり時間が出来たので少し凝った料理でもして、また貴嶺の家に持って行って食べてもらおうと桃也は考えていたはずだが。
(あれ、おれ家に帰った記憶が――)
 家の門までは帰り着いたはずだと、ぼんやりした頭で記憶をたぐり寄せる。
(門に着いて……そうだ、向かいの矢田さんに声をかけられて――貴嶺さん!)
 思い出した。
 矢田主婦に、五軒先の家に住む貴嶺が丹木山へ入って帰って来ないと聞かされ、貴嶺の家に確認をしに行くと姿が見当たらず、それで桃也は貴嶺を探しに丹木山へ入った。
(そこで男――鬼に会って)
 赤目赤髪の鬼だった。
 その鬼から逃げて、追いかけられて、鬼治寺に駆け込み「助けてくれ」と頼んだ。寺の住職である紫穏は一枚の札をくれたが、それは鬼に効かず桃也はそこで一度意識を失った。
(気がついたら、おれの部屋だった……)
 自分の部屋とはいえ、手を縛られて鬼にベッドへ押し倒される格好ではあったが。
 はじめは怯えていた桃也だが、赤目赤髪の鬼の容姿が白目白髪に変わるのを見て過去を思い出した。
 幼い頃に丹木山で迷子になったとき、桃也はこの二人の鬼に会っていた。鬼は岩の下に封印されていたが、それを桃也が解いてしまった。解放された鬼は桃也を麓まで運び、その後は姿を見せなかったようだが、なぜか今になって再び桃也の前に現れたのだ。
 以前、会ったことがあると分かって桃也は、押し倒されているという状況にも関わらず気を許して泣いてしまった。
(それから確か、鬼の目が光ったんだ)
 光る鬼の目を見ているうちに桃也は深い眠りに落ちた。
 どうやら鬼は催眠術のようなものを使えるらしい。
(鬼はどこに行って――)
 ふと桃也が布団の中で身動ぎした時だった。
「起きているんだろう?」
 ごく近い背後から声がした。
 ギョッとして慌てて振り返ると、桃也の隣で昨日会った赤目赤髪の鬼が寝転がっていた。
「なっ……な、ななっ」
 ずっとそこに居たのだろうか。どうりでいつもより暖かかったと、思う余裕もなく桃也は驚きのあまり声がでない。
 そんな桃也の様子を半分面白そうに、半分呆れながら見上げつつ鬼が再び問う。
「さっきから何を考えていた」
 だが、今の桃也に答える余裕もない。驚きがやっと声になって、桃也はベッドの上に起き上がると「なんで居るんだよっ!」と叫んだ。
 ごく当然の問いかけだが鬼は「愚問だな」とあっさり受け流す。
「くそっ!」
 鬼の飄々とした態度に悪態をつくと、桃也はベッドを降りようとし――
「わっ!?」
 腕を掴まれ強い力で引き戻されると、桃也は昨夜と同じように鬼に組み伏されていた。反射的に空いた方の手で、自分の腕を掴む鬼の手を引き剥がそうと伸ばすが、その手も鬼に捕まってベッドに押し付けられる。
 ハッとして顔を上げると、怖いほど真剣な鬼の顔があって桃也は固まった。
「いい態度だな、桃也。言っておくが、どんなにお前が拒もうともお前はもう俺から逃れることはできない。覚えておけ」
 そう言う鬼の顔が迫り、桃也は何をされるのかと考えることもできず、本能的に目をぎゅっと瞑った。
「っ!?」
 すぐには何をされているのか桃也は理解することが出来なかった。
 柔らかいものが唇に押し当てられて、それが何なのか考える間もなく今度は生温かく湿ったものが唇を滑っていく。その柔らかいものが鬼の唇で、生温かく湿ったそれが鬼の舌だと、わかった瞬間桃也は驚いて目を見開き、ついでに抗議の声をあげようと口も開いた。
「んぐ……あっ」
 しかし、それを鬼が逃すはずもなく、さらに深く口付けると隙間を割って舌先を桃也の咥内に侵入させる。
 自分は鬼に口付けをされ、あまつさえ鬼の舌が自分の口の中を思うがままに犯していく、その状況を直視したくなくて桃也は、再び目を瞑るも余計に感覚は鋭くなって、鬼の舌の動きを敏感に感じ取ってしまっていた。
 本当なら鬼とはいえ男にキスをされるなど、嫌悪感を覚えてもいいはずの状況に、他の感情はともかく嫌悪感がないことが更に桃也を動揺させた。
 そんな桃也の戸惑いや動揺を無視するように、鬼は自身の趣くままに咥内を蹂躙していく。
(なんで……鬼は、鬼だろう?)
 言い伝えにあるような鬼喰山の鬼とは思えない行動を、その理由を桃也はどう捉えるべきなのかわからないでいる。
 鬼の口付けは一体何を意味しているのだろうか。
「わかっただろう、桃也」
 気がつくとキスは止んでいた。鬼の声に我に返って目を開けると、やはり間近に鬼の顔があった。赤い目が桃也の目を射抜いて離さない。
「お前は俺から逃れることはできない。諦めろ」
(そうなんだろうか)
 ふと、桃也は内心で呟いていた。
 長い間封印されていた鬼を解放してしまったのは桃也だ。だが、封印を解いたときの記憶を取り戻した今でも、それが間違ったことだとなぜか桃也は思えなかった。今のところ桃也が見てきた中で、鬼の悪逆非道な振る舞いを見たことがない――桃也を縛ったことを除いては。
 鬼の封印を解き、解放された鬼が迷子の桃也を助けた。そのことで生まれた縁が、二人を引き合わせるのならそれは確かに逃れられないことなのだろう。
 それだけのことなら、何も桃也だって拒む理由はない。しかし――
「あの……」
 反論もせず考え込む桃也の態度をどう取ったのか、鬼は再び桃也の唇を奪うと更に桃也の大事な部分に手を伸ばしてきた。
「やめっ――んっ!」
 ズボン越しに触れられ、撫で上げられて、少し硬くなりかけたところを強く握られ――そこでついに桃也の羞恥心が爆発した。
 足で鬼の腹を蹴って体を引き剥がすと、頭上の枕を手に取って思い切り鬼の顔めがけて振り回す。見事に鬼の顔面を打って隙ができたところで、桃也はベッドから転がり落ちるように抜け出すと、
「バカヤロー! お前なんか出てけっ!」
と言いながら自分で部屋を出て行ったのだった。


 桃也はその勢いのまま家を飛び出すと、朝霧のもやがかかるなか鬼治寺へ走った。
 昨夜はあのまま眠らされたので服装は変わっていなかったが、同じくジャケットもマフラーもなかったので外は寒いはずだった。
 だが羞恥と怒りのためか顔は熱く、全速力で走っているためか寒さは感じないようだった。
 そのまま勢いを殺すことなく鬼治寺へ続く階段を登り、住居の庫裡へ向かうと玄関前でやっと足を止め、桃也は荒い息をつきながらインターホンを押した。
 早朝でもあったため、さすがに昨夜のように戸を叩くことはしなかったが、息を整えながらしばらく待っても反応がないので再度インターホンを押す。
 それでも出てくる様子がないので、「まさかな」と呟きつつ戸に手をかけると、やはり昨日と同じように戸は開くのだった。
(無用心にもほどがあるだろ)
 勝手に他人の家に入る自分の行為は棚に上げ桃也は呆れた。
 中に入ると室内は静かで、朝食の用意をしている様子もなかった。つまりはまだ寝ているのだろうと思い、桃也は一直線に階段へ向かった。無意識に足音をさせないように階段を登って、昨日入った部屋の前まで来たが、そこで部屋の中から声が聴こえて足が止まる。
『もう……もう、やめて、くださいっ――紫穏さ――んっ!』
 紫穏の弟子、月嗚の声だった。
 ついでにベッドの軋むような音もするので、中で何が行われているかは桃也でも察しがついた。
 それにしても、昨夜はあんなに紫穏のことを求めていて、今朝はやめてくれと言う、その変化に違和感を覚えつつも桃也はそっとその場から離れると階段を降りた。
 昨夜から邪魔ばかりしていることに気が咎める桃也だが、かと言って早々に帰るつもりも桃也にはなく、階段の下から二段目に腰掛けると紫穏が出てくるまで待つことにした。
 どれくらい待ったか。膝の上で両手を組み、組んだ両手の上に額を乗せて目を閉じていた桃也は、二度寝をしたときのような心地良さを覚えてフワフワと意識を漂わせていたが、二階から戸の開く音がして途端に目が覚めた。
 慌てて顔を上げて階上を見上げると、和装の寝間着姿の紫穏が下りてくるところだった。
 紫穏は階下にいる桃也に気づいても、とくに驚いた様子もなく微笑むと言った。
「おや、桃也くん。こんなに朝早く、私になにか用でもあるのかな?」
 とぼけた様な紫穏の物言いに、途端に桃也は頭に来て立ち上がると口を開きかけた、が――
「いや、話はあとにしよう。腹が減ったな。桃也くん、何でもいいから作ってくれないか」
 思いも寄らない頼みに桃也は戸惑い、つい何気なく視線を二階へやった。家事ならあの弟子がやるのではないかと思ったからだ。
 しかし、桃也の視線の意味を察した紫穏は妖しい笑みを浮かべ、
「月嗚はしばらく起きないよ。いや、起きられないよ。だから月嗚のぶんと、それから桃也くん、きみも食べていくといい。朝食はまだだろう?」
 そう言われて、思い出したかのように空腹を覚えた桃也は、仕方なくキッチンへ向かうと朝食の準備に取りかかった。いろいろと言いたいことはあったが、昨夜から押しかけているという負い目もあったので、侘びのつもりで作ることにした。
 毎日料理はしているし、趣味のひとつでもあるので適当な材料さえあれば二、三品なら手早く作ることができた。
 白米はタイマーで予約していたらしく、すでに炊き上がっていたのでそれに合わせておかずを作っていく。
 三十分後にはすっかり出来上がって食卓に朝食が並べられた。
「そういえば料理が得意なんだったね」
 桃也が料理をしている間に風呂に入っていたらしい紫穏が、新しい和服に身を包んで現れた。そして、並べられた料理を見て多少感心したように言って、手を合わせると食べ始めた。
 桃也も一応自分の分の朝食を用意し紫穏の向かいに座ったが、いつもと違う朝の光景に少々戸惑いを覚えていた。
 そんな桃也に「食べろ」と促すこともなく、紫穏は黙々と箸を動かしている。
 昨夜といい、今といい、何を考えているのかわからない紫穏の様子に、桃也は昨日感じたわだかまりが再び胸の内に広がっていくのを感じた。
「あの――」
 たまりかねて桃也は、箸を置くと紫穏を見つめた。
「鷺島さんは、おれが鬼の封印を解いたって知ってたんですよね。なんで昨日、言ってくれなかったんですか?」
 黙々と食べる紫穏を見て、もしかしたら「食事中にしゃべるな」と怒られるのではないかと桃也は気を揉んだが、そうはならなかった。
 紫穏も桃也の視線をまっすぐ受け止めると答えた。
「ということは、思い出したんだね」
「はい」
「そう。言わなかったのは、桃也くんが忘れていたからだよ」
「は?」
「自分で思い出さなければ意味がない。私が言ったところで嘘だと言われてしまえば、それまでだからね」
 それだけを言うと紫穏はまた食事を続ける。
 紫穏の言うことがわからないではなかったが、桃也は今ひとつ納得できなかった。だが、それ以上どう訊ねたらいいのかも分からず、桃也は質問を変えることにした。
「あの……昨日くれたフダ、効かなかったんですけど」
 言いながら視線でも責めるが、紫穏はそれを涼しい顔で受け流した。
「そうかな。効いてると思うが?」
「効いてませんっ!」
 無責任な紫穏の態度に、つい声を荒げる桃也。そんな桃也に意味ありげな視線をやって今度は紫穏が問いかけてきた。
「では訊くが、何か酷い目に遭ったのかな?」
「え……」
 問われて桃也は咄嗟に思い返した。
 紫穏から札をもらったあと、帰り道で鬼と会ったが縛られた以外はとくに――と思ったところで今朝のことを思い出した。途端に顔が熱くなる。
「おや、顔が赤いよ、桃也くん」
「なっ、ちがっ、と、とにかく! 鬼を退治するか、近寄らせない方法を教えてください! 鷺島さんならできるんでしょう? お願いします!!」
 もはや懇願に近く桃也は頼み込んだが、紫穏の答えは昨夜と変わらなかった。
「抱かせてくれるなら、何とかしてあげてもいい」
(なんて生臭坊主だっ)
 とは、流石に目上に対して口にすることはできなかったが、表情まで押し殺すことはできず紫穏を睨みつける桃也。それには構わず食事を続ける紫穏は、条件を撤回する気も、新たな提案をする気もなさそうだった。
 弟子の月嗚に求められて、それに当たり前のように応えておきながら、それでもなお他の男と関係を持とうという紫穏の気が知れない。
 一体何を考えているのか、それともこの男の頭の中には “それ” しかないのだろうか。
 桃也が考え込んでいると、答えようとしない桃也に紫穏が軽く首を傾げる。
「嫌なのか?」
「あ、当たり前じゃないですか。そんなこと言われて、簡単にわかりましたなんて言えるわけないじゃないですか」
「そう。でも鬼には抱かれたんじゃないのか?」
「なっ!?!」
 いきなりの発言に桃也は顔を熱くして紫穏を凝視した。
 桃也の驚きをよそに紫穏が続ける。
「鬼とやったんなら、私にも抱かせてくれたって――」
「やってません!」
 紫穏の言葉を遮って、やっとのことで否定すると紫穏が少し意外そうな顔をした。
「そうなのか? ふ〜ん……」
 一応、信じてくれたらしいことに一安心した桃也だったが、なぜいきなり紫穏がそんなことを言い出したのか、それが気になる。
「あの、なんで……その、抱かれたって思うんですか?」
「ああ、鬼治寺だけに代々伝わる言い伝えがあるんだよ」
「言い伝え?」
「丹木山周辺に広まってる言い伝えは、単に鬼が山に入った人間を喰らうというだけのものだが、私が父親に教えられた言い伝えはそれだけじゃない」
「……」
「あの山に棲む赤色の髪と目を持つ鬼は、山に入った人間を攫っては変態行為を繰り返しているという――」
「嘘だっ!!」
 あまりのふざけた言い伝えに思わず桃也は叫んでいたが、紫穏は面白そうに肩で笑って、それ以上は何も言おうとしなかった。
(まったく何て人だ……)
 内心で呟いていた桃也だが、もう一つあることを思い出して言った。
「あの、鬼をどうにかすることができないなら、せめて一緒に丹木山に来てくれませんか?」
「なぜ?」
「貴嶺さんが昨日、じゃない一昨日から丹木山に入って帰って来ないらしいんです」
 すると紫穏は些か呆れた顔をして桃也を見つめた。
「きみは何というか、相当にお人好しなんだな」
「え?」
「たしか昨日もそんなことを言っていたね。近所の主婦が、貴嶺が丹木山に入って行くのを見たとかなんとか」
「はい」
 言われて桃也は昨夜のことを思い返す。
 確かに桃也は紫穏に言っていた。貴嶺を探しに丹木山に行ったと。だが、その時紫穏はとくに心配するような素振りもなかった。友人のはずなのに。
「それで、きみは貴嶺を探しに丹木山へ入り、鬼に追い掛け回された。そうじゃなかったか?」
「そうです、けど……え、まさか」
「そのまさかだよ。その主婦は桃也くんにそう言うように鬼に暗示をかけられたのだろうね。つまりきみは騙されたんだよ、桃也くん」
「そんな、でも、貴嶺さんの家にも見に行きましたけど、本当にいなくて――」
「貴嶺が家にいないことはよくあることだろう? 先週あたり話をしたときに、近々東京のほうでやる展示かなにかを泊りがけで見に行って来るって言ってたから、それじゃないのか?」
 紫穏の言葉に思わず脱力すると桃也は深く項垂れた。
 結局、自分は振り回されているだけなのか、と。
「帰りは遅くなると言っていたから、案外昨日の夜遅くに帰って来ているのかも知れないよ」
 食事を終えた紫穏が立ち上がりながら言って、着替えるためかダイニングの出口へ向かう。
「あ、そうそう。片付けは月嗚にさせるから、食べ終わったらそのままにしててくれていいからね」
 そうして一人残された桃也は、情けなさと悔しさを飲み込むように朝食を掻き込んだのだった。


 朝食を食べ終わると紫穏には放っておいていいと言われたが、それでは気が引けるのでせめて食器はシンクにまとめて置いて、それから桃也は真っ直ぐに貴嶺の家へ向かった。
 だが、貴嶺が帰っていたらいいが、帰っていなかったらどうしようか。インターホンを押して出てこなかったら、合鍵を使って中に入り確認したいと思うのだが、貴嶺の家の合い鍵はいつも鞄の中だ。
 昨日一旦家に戻ったときに玄関に鞄を置いたままだったことを思い出し、まだ鬼がいるかも知れない家に帰らなきゃいけないのかと思うと、自然と足取りも重くなる桃也だったが、ふといつもの癖でズボンのポケットに手を突っ込むと、偶然にか貴嶺の家の鍵が入っていて桃也は胸を撫で下ろした。
 思い返してみて、そういえば貴嶺が丹木山から帰って来ないと聞き、慌てて貴嶺の家に鍵を使って入ったが、そのとき鍵を使ったあと鞄に仕舞うのが面倒でズボンのポケットに突っ込んだのだった。
 内心でラッキーと呟くと、桃也は歩調を速め貴嶺の家に急いだ。
 貴嶺の家に着くとまずインターホンを押して応答を待ったが、少ししても返って来なかったので合鍵を使って中に入った。
 やっぱりまだ帰って来てないんじゃないかと思いながら、玄関の戸を開けて中に入ろうとした時、一階奥の部屋から物音がした。
(貴嶺さんっ)
 紫穏の言う通り本当に帰って来てるのに驚いて、桃也は慌てて靴を脱ぐと廊下奥へと急いだ。廊下の突き当たりを右に折れると、その奥の戸の向こうに小さめの和室があり、そこが貴嶺の寝室になっている。
 桃也がそこに着く前に和室の戸が開いて貴嶺が姿を現した。
 平均以上の長身に、そこそこに恵まれた体躯をしており、一重の切れ長な目は起きたばかりだからかずっと細められ、薄い唇は不機嫌そうに真一文字に引き締められている。
 髪は肩より長く、寝起きのせいばかりとは言えない乱れた髪は、伸ばしているというよりは伸びてしまったと言っていいのだろう。黒い瞳とは違って髪は色素が薄くなっているが、これは染めているのではなく体質か、あるいは日に当たりすぎたせいだと思われる。
「桃也くん、今何時だと思って――」
 起きたばかりだからか低く掠れた声の貴嶺に、怒られるのは承知の上と桃也は駆け寄った。
「すみません、貴嶺さん。でも、どうしても貴嶺さんが帰って来てるか確かめたくて」
「……確かめる?」
 桃也のただならぬ様子に気づいたのか、貴嶺は何度か目を瞬かせると、とりあえず場所を変えようと桃也を促した。
 再び廊下を戻ってダイニングキッチンへ入ると、眠気覚ましの暖かいお茶を飲む貴嶺に、桃也は昨夜からの出来事を話した。
 向かいの家の主婦に貴嶺が丹木山へ入ったまま帰って来ないと聞いてから、今朝、紫穏の家へ行ってそれすら鬼の罠だったと聞かされたところまで、すべて話すのに十分ほどかかったが、その間貴嶺は腕を組み目を瞑って、時折相槌を打ちながらも黙って聞いていた。
 もともと貴嶺という男は無口すぎるところがあったが、それでも鬼が出たとか、それどころか鬼の姿が変わったとか、はたまた札が美女や美男に化けたとか、新たに紫穏がくれた札は全然鬼に効かなかったとか、そういう奇想天外なことを言っても無反応な貴嶺に、ちゃんと聞いてくれているのだろうかと些か不安になる桃也だったが。
 桃也が話し終えて貴嶺の反応を待っていると、しばらくしてようやく瞑っていた目を開き、貴嶺はまっすぐ桃也を見据えた。
「それで今鬼は?」
「たぶん、まだおれの家にいると思います」
 桃也の答えを聞くと、さっと貴嶺が立ち上がる。
「貴嶺さん?」
「着がえる」
「着がえるって……」
「桃也くんの家に行く」
 端的に言ってダイニングを出て行こうとする貴嶺を、呆然と見送っていた桃也だが慌てて立ち上がると貴嶺を追った。
「ま、待って下さい。鬼に会うつもりですか?」
 再び寝室に戻り、クローゼットの中から適当に服を引っ張り出して着がえを始める貴嶺を、桃也は引きとめようとした。
 何の策もなく鬼と会うのは無謀だと思ったのだ。だが、
「鷺島は札は効いてると言ったんだろ」
「そうですけど、でも、あのフダなら鬼が握りつぶしてしまったし、本当に効いてるとは……」
 口を尖らせて桃也が言うも、それ以上は答えず貴嶺は着がえを済ませ玄関へ向かった。
 仕方なく桃也もそれに続き、貴嶺と一緒に自分の家へ戻ることになった。
(貴嶺さんは鷺島さんを信用してるみたいだけど、あんな人のどこが信用できるんだろう)
 内心でぶつぶつと不満を洩らすが、それも二、三分で終わった。すぐに自宅前に到着すると先を行っていた貴嶺が躊躇いもなく門を開けて入っていく。
 貴嶺に恐怖というものはないのだろうかと、あとを着いて行きながら桃也は思ったが、その貴嶺の足が玄関前で止まったので「おや」と思った。
 見ると貴嶺は玄関脇の狭い庭先へ視線を向けていた。その視線の先を追って行くと赤毛の猫がこちらに向かって歩いてくるところだった。
 赤毛とはいえ褐色により近く、猫にしては珍しい毛色だ。
 桃也は近づいてくる猫に合わせて膝を折ると、その膝に前脚を乗せてくる人懐っこい猫の頭を撫でてやる。
「ここらへんじゃ見ない猫ですね。捨てられたのかな」
 猫を撫でながら傍にいる貴嶺に言うが、
「それ、鬼じゃないのか?」
という貴嶺の指摘に思わず硬直する桃也。
 「まさか」と思いたかったが、貴嶺の指摘に反応して猫の体が一瞬震えたかと思うと、あっという間に膨れ上がり人の形になっていく。そうして赤目赤髪の鬼の姿に転ずると、驚いて尻餅をつく桃也をよそに鬼は貴嶺を睨みつけた。
「よくわかったな」
 凄みをきかせた視線だったが、貴嶺は表面上は意に介した風もなく受け止めて答えた。
「桃也くんから話を聞いた。昨日は山の中で白猫を見て、今日は赤い猫だ。鬼は赤い目と髪の鬼と、白い目と髪の鬼。関係がないわけがない」
『なるほど。能面のような顔をして、見るところは見てるというわけだね』
 別の鬼の声がして、慌てて見れば男の左目がすでに白く変色している。
「何の用だ」
 と、これは赤目赤髪の鬼の声だが、簡潔な問いには簡潔な答えが用意されていた。
「桃也くんに付き纏うな」
 貴嶺の言葉に、あるいは口調にか、鬼の目が細く険しくなる。
『受け入れ難い要求だね。それに、あなたに何の権限があるのかな』
「ここは大真さんの家で、大真さんには留守中桃也くんをよろしくと言われている。何かあっては困る」
「話にならんな。ガキじゃあるまいし」
 鬼が吐き捨てるように言って、しばらく二人――いや、三人の睨み合いが続いた。
 その様子をひやひやしながら見ていた桃也だが、朝の人通りも多くなる時間帯だと気づくと、途端に近所の視線が気になった。
「あの、とりあえず中に入りませんか?」
「桃也くん」
 桃也の提案に貴嶺が警戒の声を上げる。その意味を桃也はすぐに理解することができなかったが、
「そうだな」
『それがいい』
と、我が物顔で家に入っていく鬼を見て、やっと桃也は自分の失態に気づいたのだった。
 鬼は家の中へ入るとずかずかと奥へ向かうので、桃也は慌てて「こっちだ」と玄関に入ってすぐの客間の戸を開けて促すが、「和室がいい」と言うので仕方なく少し先にある和室を使うことにした。
(なんで客間が洋室って知ってんだよ……)
 和室に入ると年代物の座卓を挟んで、奥に鬼が、手前に桃也と貴嶺が座る。
 最初に口を開いたのは鬼だった。
「さて、まずお前が何者か聞かせてもらおう。桃也とはどういう関係だ」
「話す必要はない」
 問答無用の貴嶺の返答に鬼が僅かに殺気のこもった視線で貴嶺を睨む。
「必要はある。お前が間に入ってくる理由はなんだ?」
「それならさっき話した。大真さんには桃也くんをよろしくと――」
『そのヒロマサとは誰のことだ?』
 白目白髪の鬼の声が割って入ると、赤と白の鬼の視線が桃也に向けられたので桃也が慌てて答える。
「あ、えっと、おれの叔父だ。父さんの弟で……」
『では、ここは桃也の叔父の家というわけだね』
「ああ……」
「で? その桃也の叔父とお前とはどういう関係なんだ」
 と、これは貴嶺に向けられた問いで、この問いにも簡潔に答えるのかと思われた貴嶺だったが、なぜか少々言いよどむ。
「どういう、も……近所に住む、知り合いだ」
「知り合いってだけで甥の面倒を見るのか?」
「そうだ」
『ふむ、たとえ命を落とすことになるとしても?』
 ふいに鬼の両目の色が強くなった。その変化を初めて見る貴嶺も少々驚いたようだが、改めて鬼の目を睨み返すと頷いた。
「……ああ」
 貴嶺が脅しに引かないのを見て、それでも鬼は納得のいかない表情をしていたが、桃也には貴嶺の大真に対する義理を通そうとする理由はわかっていた。
 まだ桃也が叔父である大真の家に来る以前のこと、かつて老夫婦が住んでいた家に貴嶺が引っ越して来るが、貴嶺は当時まったく近所の住人と接しようとはしなかった。外出するとき顔を見たら挨拶はするが、話しかけられれば言葉少なに返すだけで、決して自分から親交を深めようとはしなかった。
 近所の住人も次第に距離を置きはじめ、貴嶺のことを『変わり者の画家』という目で見、遠巻きにするようになる。
 そんな状況が半年ほど続いた頃、一人暮らしだった貴嶺は絵を描くのに没頭するあまり、寝食を忘れてついに倒れてしまった。そこに回覧板を届けに来た隣人が家を訪れるが、いつもなら応答がなくても玄関先に回覧板を置いて帰るだけのところを、その日はなにか異変を感じたのか家の中を覗き、そして倒れている貴嶺を発見して騒ぎになった。
 騒ぎになったとき大真もいて、近所の住人数名と貴嶺の今後について話し合ったときに、「自分が世話を見るよ」と大真が名乗り出て、それで以後は貴嶺の世話を大真がするようになった。
 世話を見ると言っても貴嶺ももういい年なので、時々様子を見に行ったりするだけなのだが。
 桃也が大真の家に住むようになってからは、大真が仕事で家を空けるときなどは桃也が大真の代わりをするのだが、貴嶺にとっては大真に対し借りがあると思っているに違いないと桃也は考えていた。
『なるほど。あなたが邪魔をする理由はわかった。しかし、これはあくまで私と桃也の問題だ。部外者は黙っていてもらいたいね』
 少々考え込んでいた鬼が再度一線を引こうとすると、すかさず貴嶺が言い返す。
「桃也くんは鷺島や俺に助けを求めてる。もう二人だけの問題ではないと思うが」
 それで鬼の視線が再び桃也を捕らえたが、鬼が口を開くより先に貴嶺が続けた。
「それに、お前は鬼だろう。人畜無害というわけにはいくまい」
 すると、鬼が目を細め口の端を吊り上げると貴嶺を睨みつけた。
「言うねぇ、人間が。だが俺が何をした? 桃也以外の奴に手を出した覚えはないが」
「では訊くが、お前は十五年前に解放されたんだろう。今まで何をしてたんだ」
『そう来る。私たちも長年封印されて無事というわけじゃなくてね。回復するにも時間が必要だったんだよ。ま、久しぶりの地上だったからあちこち見て回りはしたけどね。でも、非難されるようなことはしていないつもりだよ』
「鬼の言うことを信じられると思うのか」
 再び互いに口を閉ざすと、卓上で赤白黒の三つの視線がぶつかり合った。
 その様子を横で見ていた桃也は気が気じゃない。鬼はどうにかしたいという気持ちはあるが、やはり相手は鬼なのだ。突然、気を変えて攻撃してきたとき、逃げ切れる自信はまったくなかった。
 鬼を付け上がらせるようなことを言うべきではないとは思うが、貴嶺の強気の口調に何か勝算はあるのだろうかと桃也は心配になってしまう。
 しばらく沈黙が続いた中、先に口を開いたのは貴嶺だった。
「しかし――桃也くんから聞いたのだが、鷺島の札を見せられたらしいな」
 そう言う貴嶺の口元に微かに笑みが浮かんでいるのを見て桃也は少々驚いた。普段、無口の貴嶺が今のようにしゃべることすら珍しいのに、さらに笑みを浮かべるところなど滅多に見られるものではないからだ。
 同じように思ったわけではないだろうが、鬼も貴嶺の言動を不審に思ってか片眉を上げて貴嶺に注視した。
「解放されてからの十五年間は知らないが、鷺島の札を見せられたということは何らかの拘束がお前にかかってると見て間違いはないだろう」
「……」
「ここに来て、お前の力は相当に殺がれてると見たが、どうだ?」
 そう貴嶺が問うも鬼は答えない。しかし、答えないことこそが肯定なのだろう。貴嶺はひとつ頷くと桃也を見た。
「そういうことだ桃也くん。警戒は必要だが、それほど恐れる必要はない」
「え、ど、どういうことですか?」
 何かを理解したらしい貴嶺の言葉に、だが桃也は意味がわからず戸惑う。恐れる必要はないと言われたところで、鬼が人間以上の力を持っていることは確かなはずだ。
「たぶんだが、桃也くんが本気で抵抗すれば鬼はきみに手出しできないはずだ。そうだろ?」
 最後の問いは鬼に向けてのものだったが、貴嶺はその返答も待たず桃也に向き直り、
「俺や桃也くんが力ずくで鬼をどうにかしようとしても無理だ。だが、桃也くんが一言出て行けと言えば鬼は出て行かざるをえない。桃也くんの意思の強さでどうにでもなる」
「えっと、それは――」
 桃也は貴嶺の言葉を頭の中で反芻し、必死に理解しようと試みる。
「おれの言うことを聞く、ってことですか?」
「ああ、恐らく」
 貴嶺が頷き、さきほどから沈黙を続ける鬼に二人の視線が集まった。
 すでに鬼の顔に笑みはなく、憮然とした面持ちで二人に視線を返している。
 何も反論しないところを見ると貴嶺の言うとおりなのだろうかと、桃也がホッとしかけたその時、鬼が鼻で笑って両目を閉じた。何の笑みだろうかと思っていると、部屋の中で冷たい風が巻き起こって、鬼の容姿が変化し始めた。
 野性的な容姿から理知的な容姿に、赤い髪は白い髪に変化し、そして再び開かれた目はもう赤くなかった。
 白い目が改めて貴嶺と桃也を見返すと、徐に口を開いた。
「勘違いをしてもらっては困る。確かに昨夜、桃也が持っていた札は私を拘束するものではあったが――逆だよ」
「逆?」
「あれは私と桃也の繋がりを、より強固にするものだったのだよ。だから、私と桃也を引き離すことはできないと考えるべきだね」
「嘘を言え。じゃあ、その札には何と書かれていた」
『馬鹿が。そんなことをお前に言うわけないだろう』
「……鷺島に訊けばわかるこどだが」
「ふん。あの詐欺師の秘密主義が言うかな? 桃也自身にすら言っていないのだからね」
 三度沈黙が下りた。
 余裕の笑みを浮かべる鬼と、不信感を露にする貴嶺と、二つの主張に混乱する桃也と、三人三様の視線が卓上で交錯する。
 桃也の言うことを鬼は聞かなければならず、「出て行け」と桃也が言えば鬼は出て行くだろうと言う貴嶺と、そうではなくて、札によって桃也と鬼の繋がりは強くなったから、逆に離れることはできなくなったのだという鬼と。その相反する主張のどちらが本当なのか桃也には判断できない。
 だが、鬼の言うように紫穏に訊いたところで答えてくれるとも桃也には思えない。もし教える気があるのなら、今朝にも桃也に説明しているはずだからだ。
 それでも、もしかしたら友人である貴嶺には話すかも知れないと、思わず桃也が期待を込めて貴嶺を見上げると、同じことを考えていたのだろう貴嶺が桃也の視線を受けて頷いた。
「ああ、札のことは俺が鷺島に訊いておく。だが俺が言ったことをこいつは完全には否定しなかったし有効なはずだ。わかったな」
 貴嶺の言葉に頷いて鬼を見れば、表情は変えないもののやはり無言を貫いている。否定もしない代わりに肯定もしない。貴嶺の言うとおりなのだろうと桃也も思った。
 さて、鬼と桃也の繋がりがどういうものになっているのか、詳しいことはひとまず置いておくとして、問題は目の前の鬼をどうにかしなければいけないということだ。
 改めて貴嶺が鬼に向き直る。
「それで、お前は桃也くんから離れるつもりはないと?」
「もちろん、それは変わらないよ」
「桃也くんが嫌がっていてもか?」
「嫌がる? ふん、桃也が私を好きになればいいのだろう?」
「なっ! す、好きにって――」
 鬼の言葉に動転する桃也だが、そんな桃也の気持ちをよそに鬼が続ける。
「最初に言ったはずだよ。これは私と桃也の問題だとね」
「だがそうとも言えない、と言ったはずだ。それに、この家の主は大真さんだ。ここに居座るのだけは俺が許さない」
「……ふむ。では、お前の家に住まわせろ」
 だが、その鬼の提案に声を上げたのは桃也だった。
「そ、それはダメだ! 貴嶺さんの家だなんて……。それに、山に自分の家があっただろ」
『お前、あそこから毎日通えと?』
「鬼なんだから平気だろ。それに、別に毎日下りてこなくたって……」
「嫌だね。それに、電気はともかくあそこにはガス水道がないんだよ。テレビも冷蔵庫も暖房も置いてない」
 どうやら、この十五年で現代の文明に浸りきってしまったらしい。それらが無いと嫌だと鬼は言うのだ。
「鬼のくせに……?」
『何か言ったか? 桃也』
「いや、別に」
 桃也と鬼の会話を聞いていた貴嶺が、軽く息を吐くと割って入った。
「仕方ない。俺の家に住め。二階はほとんど使ってないから」
「貴嶺さん!」
「桃也くん、俺なら心配ない。それに、毎日この成りをした鬼が丹木山に出入りしていたら、近所の人たちが騒ぎ出すかも知れん」
「あ……」
 貴嶺の言葉に、赤や白の目や髪をした男が丹木山に出入りする場面を桃也は想像した。言われてみれば、そんな状況を町の住民が見てしまうと大騒ぎになることは必至のように思えた。
 そもそも、その鬼を解放してしまったのは桃也自身なので、他の住民に迷惑がかかるようなことだけはできない。
「ひとまず俺の家に住まわせる。あとをどうするかは追々考える」
 他の解決策も思い浮かばない桃也は頷くしかなかった。
『決まったな』
 早速、鬼が立ち上がって和室を出て行こうとするので慌てて桃也は呼び止めた。
「ま、待てよ」
『なんだ?』
「貴嶺さんには絶対何もしないって、誓えよ」
 すると、鬼がふと貴嶺に視線をやり、また桃也へ視線を戻すと肩をすくめてみせた。
『安心しろ。俺にだって好みがある』
「私にもね。それに、彼は強力な護符を持ってる。できるなら、あまり傍には寄りたくないね」
「護符?」
 驚いて貴嶺を見つめるが、貴嶺はあまりそのことに触れられたくはないのか「鷺島にもらった」と言うだけで、それ以上は何も言わない。
 結局、鬼は貴嶺の家に住むことになり、玄関先で貴嶺と鬼が去って行くのを桃也は呆然と見送るしかなかったのだった。


 数十分後、再び桃也は鬼治寺にいた。
 理由はあの札に何と書かれていたのか聞くことと、もう一度鬼をどうにかしてもらえないか頼むためである。
 駄目でもともとではあったが、札の件にしてもやはり一度は自分で聞くべきことだろうと思ったのだ。
 鬼治寺に着くと僧衣を纏った月嗚が家の周りの落ち葉を掃いているところで、桃也が来意を告げると住居の客間へ案内してくれた。ただ、月嗚が桃也と目を合わせようとせず常に俯いているのが、どうも桃也は気になって仕方ない。
(昨日は睨まれたような気がするんだけどな……)
 もしかしたら今の態度は照れや羞恥から来ているのかと考えると不可解だと思う。
 恥ずかしさを覚えているのだとしたら、その原因は昨夜、紫穏に奉仕していたところを桃也が見てしまったことか、もしかすると今朝の情事を聞いてしまったことも知っているのか――そのどちらかか、あるいはどちらともなのだろう。
 昨夜からずっと自分のことばかりで、月嗚にも随分と迷惑をかけたと思うと、桃也は謝るべきだろうとは思ったのだが、内容が内容だけに少々言い出しづらかった。
 そうやって迷って迷いながら、客間に入ったところでやっと声をかけようとしたときには、月嗚が逃げるように客間から出て行ってしまい、結局桃也は機を逃してしまった。
(もしかしたら人見知りする人なのかな)
 首をかしげつつ桃也は、謝罪はまたの機会にしようと諦めた。
 通された客間は和室で、高級そうな座卓の前に座り紫穏を待っていると、数分もしないうちにこちらも今朝とは違い僧服を着て現れた。
 私服や和装の寝間着姿とは違い、それだけで桃也は身の引き締まる思いだったが、変わったのは外見だけで中身はやはり中身だった。
「やぁ、桃也くん。気は変わったかな」
「? 気が変わるって……?」
「私に抱かせてくれる気になったのかなと」
「なっ、なるわけないだろ!」
 紫穏の出で立ちに些か緊張していた桃也だが、昨夜からの印象と何ら変わらないとわかって思わず脱力する。
 卓を挟んで向かいに座る紫穏を桃也が半眼で睨むも、当の紫穏は涼しい顔で桃也を見返し会話を続けた。
「それで、鬼はどうした?」
「貴嶺さんの家に住むことになりました」
「なに」
 貴嶺が丹木山から帰って来ないと聞いても心配する様子を見せなかった紫穏が、この時はじめて僅かではあるが表情を硬くする。
「貴嶺は大丈夫なのか?」
「大丈夫だと思いますよ。鬼は貴嶺さんに興味ないって言ってましたし、鷺島さんが貴嶺さんに渡した護符が効いてるようですから」
「そうか」
 桃也の言葉に紫穏の表情が和らぐ。
 そんな紫穏の様子を見て、ほんの少し桃也は唇を尖らせた。
「あの……貴嶺さんにあげたような護符をおれにもくれませんか」
 貴嶺には渡しておいたということは、やはりそれは友人だからなんだろうと思うと、紫穏にとって友人の近所に住む人というだけの自分の存在が、桃也には何か虚しく思えてくるのだった。
 予め貴嶺に護符を渡していたのも、もしかしたら鬼が再び丹木山に戻ってきたのを察してのことだったのかも知れない。
 もしそうなら、貴嶺も貴嶺で自分に何か一言注意なり警告なりしてくれても良かったのにとも思う。
 桃也のそんな考えを見透かすように、紫穏の目が笑んだように細くなる。
「言っておくが桃也くん、貴嶺はちゃんと代価を払ったから、私はあの護符をあげたのだよ」
「えっ……払ったって、いくらですか?」
「五回だ」
「ご――え? 五回って」
「五回抱かせてくれた」
「だっ、え、マジっすか!? 貴嶺さんが!?」
 驚きの事実に桃也は思わず腰を浮かせて声を上げた。
 桃也は信じられない思いだった。いつも絵を描くことしか頭にない貴嶺が、身を守るためとは言え効くかもわからない護符のために体を差し出すとは。
 しかも、今は鬼が存在するということを実際に見ているため護符が必要だと思えるが、言い伝えに怯えることはあっても、ほんの2日前には鬼が実在することなど、頭から信じることは到底できないはずだった。
 そんな不確かな状況で貴嶺は護符をもらうため体を紫穏に差し出した、それが桃也には信じられなかった。
 目を丸くして固まる桃也を楽しそうに眺めながら紫穏が説明を加える。
「あれが芸術以外のことに無頓着なのは桃也くんも知っているだろう? 十五年前に解放されてどこかへ姿をくらました鬼が、最近また丹木山に戻ってきていると気づいてね。芸術生活を脅かされないためには護符が必要だろうと言ったのさ」
(それって、逆に鷺島さんが脅してるってことなんじゃ……)
「あいつは男に抱かれることにも頓着しなかったわけだ。そういう奴なんだよ」
「……」
 浮かした腰を落とすと桃也はつい考え込んだ。
 頓着しないと言っても、莫大な代金を請求されるのとは少しわけがちがう。法外な値段をつけられればそれは単なる悪徳だが、体で代価を払うことを要求されるのは悪徳に加えて生理的なものも関わってくるはずだ。
 だが、貴嶺はそういうことも気にしないというのだろうか。
 しかも相手は友人だ。桃也は詳しく聞いたことはないが、長年の友人同士なのだろうと思っている。そんな友人が護符を渡すかわりに体を差し出せということも、貴嶺にとって問題にすらならないというのだろうか。
 そんな風に考え込む桃也を、紫穏は興味深そうに眺めていたが徐に口を開くと桃也に問うた。
「きみは何か引っかかってるようだが、何を犠牲にするかは人それぞれではないかな?」
「犠牲……」
「何を犠牲にし、何を欲するかということだ。貴嶺は芸術に捧げる時間を守るために体を犠牲にした。きみは何を守り、何を求める? そのために何を犠牲にする?」
「おれは……」
 何を守り何を求めるのか、そんなことは分かりきってるはずだと、桃也はそう思う反面で何を犠牲にするかということを同時に考えたとき、自分がどうすればいいのかということが途端に分からなくなってしまった。
 紫穏は護符を交換条件に貴嶺の体を要求した。その代わりに紫穏が犠牲にしたものは何かと考えれば、それは貴嶺と友人としての信頼関係だろうか。こればかりは貴嶺に聞かなければわからないが、信頼関係が失われるのは有り得ることだろう。
 その貴嶺はといえば、自分の身を守る護符を――脅しがあった感は否めないが――欲した。その代わりに紫穏に体を差し出して犠牲とした。鬼の存在に怯えたり、あるいは傷つけられる、もしくは最悪殺されるなどして芸術生活に支障を来たすことを厭い、それよりは紫穏に抱かれる方がいいと思ったのだろう。
 では自分は何を守りたいのか、そのために何を犠牲にするのか――。
(でも、だからって鷺島さんに抱かれるのは違う気がするし。鬼の餌食になりたいわけでもないし……。だけど、おれは今の生活を守りたい)
 だが、考えてみれば今の生活を脅かそうとする鬼を解放したのは幼い頃の自分なのだ。
 鬼の口車に乗せられたのもあるが、山に迷って心細い思いをしていた桃也を、鬼が助けてくれたのも事実だった。あの頃、自分を助けてくれることを求めて桃也は鬼を解放した。その犠牲が今なのかも知れない。
 紫穏は無償で護符を渡すつもりはないらしいし、同じく鬼を封印、または退治するつもりもないのだろう。なら、今の生活を守るために桃也自身、何をするべきなのだろうか。
「まあ、考えがまとまったら、また来なさい」
 考え込んでしまった桃也にそう言って紫穏が立ち上がろうとする。それを慌てて桃也が呼び止めた。
「あの、最後にひとつ」
「何かな?」
「昨夜くれたフダには何が書いてあったんですか?」
 すると、紫穏は謎めいた微笑を浮かべて言った。
「鬼の封印を完璧にするものであり、きみの身を守るものだ」
「封印を……?」
「きみの身を守るものだということは保証するよ。だが、封印の件についての説明はもう少し様子を見てからにさせてもらう。今はただ、鬼をどうするかは桃也くん次第だとだけ言っておこう」
 紫穏はそれだけを言うと、それ以上の情報を桃也に与えるつもりはないというように、客間から去って行ってしまった。
 残された桃也は長い間、紫穏の言葉を反芻してその意味が何を示すのか考え込むのだった。

2010.10.01

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